井手家建物の紹介

Ide family building introduction

井手家文書

中世から近世の古文書が多数残されている。内容については、中世に水間寺の目代職(もくだいしょく)を務めていたことから水間寺に関わる資料が多く残されている。足利尊氏、義満の御教書や免田帳等の写しが見られる。近世には水間村の庄屋役を代々務めたことから、水間村の村政に関わる史料が残されている。
15世紀末から16世紀末にかけての70通を超える土地売券が残されており、井手家の先祖に比定される水間寺の目代職であった一条院を号した目代良正房、左京宛のものが多数あり、泉南地域に残る中世文書を研究する上での貴重な資料である。
江戸時代に文書も多く残されているが、現存するものがそのすべてではなく大阪歴史博物館や某大学等にも収蔵されている様であり、持ち出された文章も多くあることが知られている。

井手家の歴史

井手家は同家の系図によると、橘諸兄井手右大臣を始祖としている。中世の頃には、水間の地に定着したものと考えられ14世紀末から15世紀末にかけての系図の記述内容が詳細のものとなっている。
水間寺の目代職を勤めているが、史料上に見えるのは享禄 3年(1530)が初出であり、正方2年(1645)が最後に見られる。庄屋として登場するのは文禄 3年(1594)の検地帳にある左近衛門が最初で、その後江戸時代を通じて代々庄屋を受けついでいる。

元禄3年(1960)に水間寺の住職として招いた正恵と云う僧が寺僧と仲が悪くなって寺から追い出された。そのために奈良奉行所に水間寺の寺僧等は切支丹徒であると訴えたことから、庄屋の井手長兵衛を始め寺僧が江戸に出向きその疑いをはらした一件があった。
この件については、詳細な記録が長兵衛によって残されている。その後、昭和になって今東光が入寺し寺僧が2派に分かれて争いとなり、全国的に知られることになったが、すでに60年も以前のことで知る人も少なくなっている。

井手家屋敷の建物

主屋・母屋

現存する棟札には
四拾代橘長兵衛尉井手諸純
享保二龍集十二月十八日辰上剋(刻)棟上
當(当)寺大工 小喜多長九郎藤原勝口
同姓吉兵衛藤原勝口

と記されている。
この棟礼(むねふだ)が主屋の建築時のものとすると享保2年(1717)は、今から304年前の建物であることが考えられる。主屋はもと芽葺(かやぶ)き屋根であったが、昭和33年4月に瓦葺きの屋根に葺きなおされている。棟礼はこの時に発見されたと思われる。
屋根の葺き替えとともに大規模な改築が行われ、大玄関や土間、台所棟が取り壊されて座敷や台所、茶室等が設けられた。
もとの主屋の構造材には全く手が入れられてなく、天井や廊下、建具等が新たに設けられているが屋根の葺き替えによって棟組は取り替えられている。

長屋門

江戸時代末期から明治頃の建物と考えられるが、今後の調査によって確かな年代が明らかにされることとなる。江戸時代の村庄屋の格式を持つ長屋門である。水路に面して建てられており、切妻造りで間口は約30mに達する本瓦葺きの建物である。大正8年に第51代の当主が医院を開業するときに内部と窓の部分が改築されており、この時の板図面が残されている。

米蔵

長屋門につづいて位置している。間口5940mm、奥行き4185mmで内部は漆喰塗りで仕上げられている。

納屋

米倉に隣接した、間口9270mm、奥行3035mmの建物である。

土蔵

間口2間、奥行き2間半の小規模な土蔵で、もとは台所棟に隣接していた。平成4年11月に現在地に曳き家をして移動している。

梅宮

元禄4年(1691)の水間寺境内御改帳に「梅宮井手大明神」と記されており、元禄7年(1694)の水間寺境内絵図には現在の厄除橋を渡った左側に「梅宮」の社が描かれている。
天保14年泉州南郡寺社覚には、
梅宮 橘氏之先祖なり
神主右同断 当主代拾二代延善勧請
と記されている
明治末年に木島村の各大字の神社が森の稲荷神社に合祀(ごうし)されたが、この時に「梅宮」は井手家の先祖をまつる神社として屋敷内に移されて合祀(ごうし)を免れてのではないかと考えられる。
大正8年頃に撮影された写真(表示参照)が残されており、現在の駐車場の場所に所在している。その後、現在の場所に移された様である。

松尾神

屋敷西側の庭に「松尾神」と刻された自然石がある。ここには、昭和の初頃まで、松の巨木(写真参照)があった。この根本に「松尾神」祀られていた。

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